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仁安3年(1168年)に滋子が出産した後白河の皇子

仁安3年(1168年)に滋子が出産した後白河の皇子が高倉天皇として即位した。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河の院司として精力的に貢献を重ねてきた。応保2年(1162年)、後白河が日宋貿易の発展を目論んで摂津の大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。

清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。

また、基実が死去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室盛子=清盛の娘に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ基房は伊勢平氏による押領だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。

以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。

この時期、後白河は院政の強化を図っており、清盛の子の重盛に軍事警察権を委任し、東海道・東山道・山陽道・南海道の追討を担当させた。また、内裏の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。

仁安3年(1168年)に清盛は出家した。政界から引退して福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めた。後白河も清盛の姿勢に理解を示し、嘉応元年(1169年)から安元3年(1177年)まで毎年のように福原の山荘へ赴いた。嘉応2年(1170年)後白河は福原山荘にて宋人と対面しているが、これは宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であり、九条兼実は「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」(『玉葉』)と驚愕している。同年に藤原秀衡が鎮守府将軍になるが、日宋貿易の輸出品である金の貢納と引き換えに任じられたと推測される。これについても兼実は「夷狄(いてき)」の秀衡を任じたことは「乱世の基」であると非難しているが、これらの施策により日宋貿易は本格化していった。

承安元年(1171年)、清盛は娘の平徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮とした。清盛一族と同様に、建春門院の兄・平時忠一族も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出するに至った。『平家物語』によれば、時忠は「平家一門でない者は人ではない(この一門にあらざれば人非人たるべし)」と放言したと伝えられている。


動揺期 [編集]
ながらく続いた後白河と清盛の良好な関係は、安元2年(1176年)の建春門院の死によって大きな変化が生じ始めた。後白河の寵愛する建春門院は、後白河と清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は、両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった。

高倉天皇は成人して政治への関与を深めていたが、後白河も院政継続を望んでいたため、高倉を擁する平氏と後白河を擁する院近臣の間には人事を巡って鋭い対立が生じていた。院近臣の藤原定能・藤原光能が蔵人頭になったことに対抗して、平氏側からは重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将になるなど、しばらくは膠着状態が続いた。後白河は福原を訪れて平氏との関係修復を模索するが、ここに突然、新たな要素として延暦寺が登場する。加賀守・藤原師高の目代が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師高の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。この強訴では、重盛の兵が神輿を射るという失態を犯したことで延暦寺側に有利に事が運び、師高の配流で一旦は決着する。

安元3年(1177年)4月には、大内裏・大極殿・官庁の全てが全焼する大火が発生した(太郎焼亡)。この大火は後白河に非常に大きな衝撃を与えた。このような中で延暦寺への恨みを抱く西光は後白河に、天台座主・明雲が強訴の張本人であり処罰することを訴えた。明雲は突如、座主を解任されて所領まで没収された上、伊豆に配流となった。激怒した延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、ここに延暦寺と院勢力との抗争が再燃することになった。後白河は清盛に延暦寺への攻撃を命じるが、清盛自身は攻撃に消極的であり、むしろ事態を悪化させた後白河や西光に憤りを抱いていた。延暦寺攻撃直前の6月1日、多田行綱が京都郊外の鹿ヶ谷で成親、西光、俊寛ら院近臣が集まり平氏打倒の謀議をしていたと密告した。清盛は関係者を速やかに斬罪や流罪などに処断した(鹿ヶ谷の陰謀)。陰謀が事実であったかは定かでないが、これにより清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができ、後白河は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまった。

清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し、高倉もまた後白河院政からの独立を志向し、翌治承2年(1178年)、両者は連携して新制17条を発布した。同年には中宮・徳子(清盛の娘)が高倉の皇子を出産し、皇子は生後1月で皇太子に立てられた。

治承3年(1179年)重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河は関白基房と共謀し、清盛に無断で重盛の知行国(越前)と盛子の荘園を没収した。特に盛子の所領は高倉が相伝することが決まっていたため、高倉・清盛側と後白河側の対立は悪化の一途をたどった。11月14日清盛は福原から上京すると、関白・基房、権中納言・師家を手始めに、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を解官、後白河も鳥羽殿へ幽閉した。これは事実上、軍事力による朝廷の制圧であり後白河院政は完全に停止された。以後、平氏政権はますます軍事的な色彩を強めていく。この治承三年の政変をもって、武家政権としての平氏政権が初めて成立したとする見解もある。従前の高官に代わって平氏一族や親平氏的貴族が登用され、また知行国の大幅な入れ替えもあって中央・地方の両面において平氏一門を中心とする軍事的な支配体制が強化していった。

同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、伊勢平氏の勢力基盤の西国のみならず、東国にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は本家などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、領家や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、荘園においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、武士による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の鎌倉幕府による本格的な武家政権支配と比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、平清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの守護・地頭の祖形だと考えられている。
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治承4年(1180年)2月、3歳の安徳天皇が践祚し、高倉上皇は院政を開始した。この時こそ清盛の平氏政権が最も強固な体制を築いた絶頂期であったが、しかし、平氏政権は後白河との良好な関係の上に形成されてきたのであり、前年のクーデターによって後白河との関係は解消されてしまっており、平氏政権の絶頂は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。

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2009年03月16日 10:50に投稿されたエントリーのページです。

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